33時間目「光へと両手を伸ばして」

 ギャルゲーは男の製作者が多いせいか「やるときゃやるヒーローが不幸なヒロインを救う(少年マンガに多い展開)」か、「みりょく的なヒロインがさえない主人公をうばい合うハーレム系(青年マンガに多い展開)」のどちらかが多い。エンターテイメントとしてはそれでいいのかもしれないが、れんあいものとしては二流三流と言っていいな。

 れんあいものっていうのは、ヒーロー、ヒロインのどちらもが問題をかかえていて、共に困難を切りぬけていくのがベターなんだ。例えば、ヒロインのピンチをヒーローが助け、ヒーローがくじけそうなときはヒロインが支える……みたいな。先生の世代だと「花より男子」とかのイメージがあるな。あんまり興味がないから最近の作品では何がそうなのかは知らん*1。CLANNAD(クラナド)はそういう意味で正こう法の作品だ。

 と、まぁ、ここで終わったらふつうの作品。CLANNADはそうやって支えあった男女のその後をえがいたアフターストーリーがメインと言っても過言じゃない。上述のように支えあう二人は逆に言ったら、一人になったらやっていけないという事でもあるな。アフターストーリーではヒロインが死んでしまったことにより、主人公がだらしない生活を送るようになる。子供をほっぽりだして、仕事と酒だけの生活になってしまうんだ。それからしばらくしてきまぐれで外出し、そこでムスメとのふれあいによってこれまでの自分を反省し、「ごめんな、いっしょに暮らそう」と思った矢先にムスメがナゾの病気で死ぬんだ。*2

 物語を進めるとどうやら死んだ理由はたびたびあらわれる「幻想世界(げんそうせかい)」にあるらしいことがわかる。この幻想世界はなかなか難解で先生も最初は何を言っているのかよくわからなかった。まず、この世界には一人ぼっちの少女がいて、何者かがガラクタロボットの体を得てこの世界にやってくる。ガラクタロボはいろいろがんばるが、少女はどんどん弱っていくというなんともかなしい話だ。この世界の事は物語風になっており、なぜかヒロインと主人公しか知らない。とまぁ、ナゾだらけだ。この少女の親はだれだ?服はだれが作ったんだ?という事はいちいち説明されない。だけどそれは当時はみんな知っていて当たり前の事だったからわざわざ説明する必要がなかったんだ。

 ……とはいってもみんなはその当時を知らないだろうから説明する必要があるな。単刀直入に言うとこれは「セカイ系」のセカイなんだ。

セカイ系とは (セカイケイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

ここでの『セカイ』とは、一般的な『世界』とは違いごく限られた範囲、具体的には主人公とそれを取り巻く環境を指す。このギャップゆえに世界ではなくセカイと表現される。

もともとは2000年代初めに生まれた言葉であり、主人公とそのごく近くの人間だけで世界の行く末が決まってしまうストーリーにつけられた呼び名であった。

また、1995年に放送されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受けた作品にもこの呼び名が付けられた。

その後も多くの人間や作家がこの言葉に言及して独自の見解を示しており、正確な定義というものは存在しない。そのような状態ではあるが大まかに特徴を挙げてみると、

  • 物語は主人公とその周辺のみで展開する。
  • 主人公は世界の危機などの世界規模の問題に関わることになる。
  • 主人公は世界の危機に向き合うと同時に日常生活も送っている。
  • 主人公とヒロインまたは主人公周辺の人物との関係性が世界の危機に直結する。
  • 主人公は世界の危機の解決とヒロインの命の二択を迫られる。
  • 主人公の精神世界や心情描写が重視される。

などの点が見られる。

(「セカイ系とは (セカイケイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科」より引用)

 かつてオタク達の間でセカイ系という言葉が流行った時期がある。セカイ系の作品では主人公とその周辺の仕事やれんあいみたいな個人的なお話とそれから飛んでいきなり世界全体の大きな問題、はかいや創造などと結びつくみたいなお話だ。こういう話がかなりあったから、この世界の「社会」はどうなっているんだ?現実味がない、自意識かじょうすぎる、何様だ!みたいに文句を言われていたジャンルだな。

 そしてれんあいものっていうのはセカイ系ととても相性がいいんだ。愛する二人は自分達の事しか見えていない場合が多いし、「友人や上司や国やその他世界全てを敵に回してもキミだけを愛する」っていうのがある意味究極の愛ってやつだしな。これにノベルゲームというシステムを加えるとより深刻になる。そのゲームに5人の不幸な少女がいるとする。そしてかのじょたちの運命の人が主人公1人だったとする*3。するとプレイヤーが「好きだ!お前以外の世界がどうなってもかまわない」みたいな選たくをする。すると、選ばれなかった4人の不幸少女はないがしろにあつかわれてしまう。自分と自分の愛する人だけ幸せになればよいというせまい世界観ができてしまうんだ。

 その上、ギャルゲーでは家族がえがかれることが少ない。そもそもギャルゲーは美少女ゲーム(男性向け18禁エロゲー)のえいきょうがデカい。成人向けの作品では両親がいない方がチョメチョメな事をやるのに都合がよかったんだ。たとえばエッチなビデオには物語らしい物語はほとんどない。女優さんのおいたちとかエピソードなどいらない。ただエロい画と声が聞けたらいいみたいなのが成人向けなんだ……ってこんな話してるとまた変態あつかいされるな。その上、キャラクターを作るとその分手間もかかる。成人向けを作っているようなところは安価な制作費しかあたえられていないところが多いから余分なものは省かれる事が多いんだ。ドラゴンクエストが物語ありきではなく、面白さありきで乱暴なゲームになってしまったように、美少女ゲームも女の子のえっちな画像目当てという面白さありきで作ったがために、物語としてはそもそも不十分なものだった。物語が重視されるようになったのはTOHEARTあたりのノベル形式を採用したぐらいからだと考えるのが自然だろう。

 さて、なぜとうとつにセカイ系のセカイが出てきたのかというと実はこの作品には元ネタがあって、ノーベル文学賞の候補として毎回話題になる村上春樹(むらかみはるき)さんの代表作「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が元ネタなんだ。この作品には幻想的な「世界の終り」と発展していっている「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの世界が出てきて交ごにえがかれる。そして全くちがう2つの世界が実は1つの物語に存在する世界として最終的には深く結びついていくんだ。CLANNADの幻想世界が世界の終わりと同一なのかはわからないが、2つの世界を交差させるという方法を借りてきているんだ。

 2つの世界(街と幻想世界)を結ぶ上で重要なのは主人公岡崎朋也(おかざきともや)だ。かれは「オレ、この街がキライだ」「飛び出してどこかへ行きたい」というキャラで、しかもれんあいゲームの主人公であるゆえかれんあいをしたあげくに「できればヒロインと2人」で出る事を望むという、2人以外の世界をてきにまわしてもじぶんたちをつらぬくというセカイ系的な生き方をのぞんでいるんだ。だからある意味で幻想世界は主人公が無意識のうちにのぞんだ未来の姿といえるな。その未来の姿と現在を交ごに見ることでまるで予知夢のように、主人公はいずれこうなってしまうというすがたをみることになる。このまま行くとマズいよーという警告になっているわけだ。幻想世界の少女がそうであったように自分がのぞむセカイではヨメもムスメも生きていけないということなんだ。そこで主人公(とプレイヤー)は自分達が望んでいたものが、とてもつらいうえにどうしようもない悲しい世界だったことにきづくんだ。

 どうしたらよいか?セカイを救う方法は人を幸せにする事で出てくる光の玉を集めることで、この光の玉が集まると願いがかなうようになるらしい。なんかドラゴンボールみたいだな。この光の玉はこうりゃく対象のヒロインとか友人みたいな身近な人からもらえるんだ。まぁ、セカイ系なら当然だろって話だけど、面白いのはそのエピソードの内容がセカイ系的な価値観を否定しているんだ。

 例えば、他のれんあいゲームに比べてヒロインどうしがライバルではなく、友達同士である事が多いように思うんだ。選ばなかったヒロインが本命のヒロインを助けてくれる展開があったりする。また、ギャルゲーの世界においては、わき役どころかエキストラとしてもあんまり出てこなかったような男キャラや親キャラが多い事も特ちょうだな。れんあいゲームにおいてはこうりゃく対象となる異性キャラの画が必要とされるだけで、おっさんキャラみたいなやつはいてもジャマなだけで、わざわざ用意されなかったんだな。こういうキャラがいる事によって、例えばヒロインを自宅にさそおうものなら、「朋也くんもかのじょを家につれこむようになったのか」みたいに父親が乱入してきて、しゅら場になってしまったり、ヒロインの家に行っても「オレのムスメにみょうな真似をするつもりじゃないだろうな」とにらまれたりして、そういうえっちな展開にはなりにくくなる。あ、そうそういまさらだけど、CLANNADは全年れい対象だからここで堂々としょうかいできるな。

 こういうキャラをわざわざえがいているのは、そういったキャラこそ重要な存在だからだ。幻想世界には「世界を食らっていた獣(けもの)」がガラクタロボットを助ける場面が存在する。ガラクタロボットがきらっていたものが敵ではない、むしろ味方になってくれるという可能性を示している。「この街がキライだ」で始まった物語だけど、その街自体が幻想世界の少女と深く結びついている事もわかってきて、自分の周りの人達や、「この街」の事も考えなきゃいけなくなるんだ。

 全体的なエピソードをみわたすと「お前ら自分達だけでがんばるつってるけど、そんなお前らがそこまで大きくなったのって、お前らがバカにしているようなやつらが助けてくれたからじゃねーの?もっと周りをみわたして、いろんな人が支えていることにきづけよ」ってメッセージがくりかえされるんだな。こういう本来気づかなかったような世界を、おそらく幻想世界と坂の場面をループする事によってどんどん気づいていくという物語なんだと思うぞ。言うまでも無く、これはセカイ系の閉じた価値観に対するメッセージだ。セカイ系の方法論を使ってセカイ系を否定しているんだな。

 ギャルゲーマーは引きこもりで、現実とうひしているとかよく言われるけれども、このようにギャルゲーの中で名作としてあつかわれているCLANNADは現実とうひどころか「現実に立ち向かえ」というメッセージで作られている。オタクたちはそれに反発する事なく、ふつうに受け入れているわけなんだ。もちろん、中にはオタクたちを現実とうひさせるようなゲームもあるだろうが、そういうゲームがあるにもかかわらず、こういった作品を思い出の作品としていつまでも語っている事こそもっと注目されるべき事なんじゃないだろうか?

 KEYについてはこれで語り終えてもいいんだけど、もう少しだけ語りたい事もある。それは次回で。おーし、今日はここまで!解散だ!

*1:最近は少女マンガでも上述のようなバトルマンガやお色気っぽいのがふつうにあって判別不能

*2:このへんはAIRのセルフオマージュ

*3:現実にはそんな事ありえないが、セカイ系的世界観ではそうなる