GEMS COMPANY個人的メモ2
なんか今週土曜日に特番があります!みたいな話だったので、それまでにアーカイブ全部を見ておこうと思っていたが、物理的に考えて無理なため、結論っぽい事だけ先に書いておきたい。私はVTuberというものに疎い「にわか」なので間違った認識を持っているかもしれないが、その点はご了承いただきたい。
私が初めてVTuberを知ったのはキズナアイである。正直、このキズナアイはゲームスキルがヘッポコすぎて見ていてイライラするレベルである。・・・・・・別に下手っぴなら下手っぴでいいのである。自分もニンテンドースイッチのオンラインサービスでファミコンの名作を遊んでいるが、昔のゲームってこんなに難しかったんだと思うくらい下手になっている。
【Minecraft】#1 感謝感激・・・KizunaAI Land初公開!
問題なのはキズナアイ自身が自分がゲームが下手な事について悩まないという点だ。マインクラフトというゲームではキズナアイは「視聴者というドラえもん」を使って、見せかけの目標達成を遂げている。要するにキズナアイとは「のび太」なのである。
「のび太」というのは成長しないキャラクターである。なぜならのび太がまともな人間になってしまったらドラえもんというキャラクターは存在できず、作品として成り立たないからである。「のび太」が成長しないのは視聴者が「そういう娯楽」を見たいという外側の理由であって、生身の人間を描こうという姿勢ではない。
キズナアイの素っ頓狂な声も、扇情的な服装も、「私はAI」というキャラ設定も現実に存在する「人間」ではなく、アニメやマンガみたいな「空想の存在」――ようするに二次元の記号の集合体なのである。「ゲームが下手」というのもキズナアイを構成するかわいい要素の一つであって、変える必要がない。野島伸司な「弱いままでいい」みたいな方向性だ。
じゃあ、強ければいいのかというとそれも違う。
バーチャルYoutuber『夢咲楓』ポケモンレート対戦やっていきます♪【USUM】
こちらの「ゲーム部」では、「中の人プロゲーマーじゃね?」と思ってしまうくらいゲームが上手い。だが、上手すぎる。
この手のポケモン対戦動画では「もこう」というアレな先人がいる。もこうの動画は「厨ポケ」と呼ばれる「制作者に優遇されすぎなポケモン」を俺の考えた最強のパーティで倒していくという内容である。「弱いと思われていたやつが強いやつを倒す」とか、あるいは負けて暴言を吐いても「ゲームの問題点を指摘しているところ」とかそれなりに見所がある。
ところが「ゲーム部」では、厨ポケ寄りの「勝って当たり前」のパーティで、それなりに「完璧なプレイング」を見せる。そのため、見ている方は「はぁ、すごいですね」といった感じで、超人のプレイを眺めているだけのヤムチャや天津飯に成り下がる。
この「私、失敗しないので」という大門未知子的なキャラクターも成長しないキャラクターで、視聴者が望む「勝利が約束された」キャラなのである。アンパンマンや水戸黄門を見れば分かる通り、お茶の間ではこういうキャラが主流だし、「デスノート」とか、「異世界なろう系主人公」とか見る限りこういうのは普遍的なのだろう。
私はどちらかというと映画に育てられた人間なので、お茶の間的なこういうキャラには納得がいっていない。なので、2018年現在一番好きなVTuberはカコ・クラガリという捻くれた状態になっている。
【カコ・クラガリ】オリジナル絵描き歌( '͜' )【VTuber】【あゆみぃな】
本題に入ろう。私が最初にジェムカンを見た時の印象は「キズナアイのパチモン」だった。私はゲーム畑の人間なので、ゲーム実況から見始めたのだが、ゲームが下手で「かわいい」に寄ってる姿が「あぁそういう路線なのね」って感じでダメだった。
この回で珠根うたはキズナアイと同じ事をやってしまった。青鬼との遭遇を避けるために、本来必要だった手順をスキップし、チャットで流れてきたパスワードをカンニングして先を進むという「ズル」をしてしまうのである。困り顔がかわいいから許すものの、そうでなかったら暴言と生卵を投げつけているレベルである。
※ガチ悲鳴ありのため、音量注意!
何度か配信実況をした後、珠根うたは青鬼実況を録画に切り替える。視聴者のヒントを封印した形で実況を続ける。ひねくれ者の私は「裏でスタッフがヒントとか出してるんじゃねーの?」と思ったが、他のジェムカンメンバーはここまでゲーム実況にこだわっていない。例えば「奈日抽(なにぬ)ねね」はマインクラフトの実況に失敗して、ファンの力を借りる事も無く、途中で断念している。ゲームを最後まで実況するかどうかは義務ではなく、任意なのである。
彼女はその後、録画実況をライブ配信とは別に10回くらい投稿して、エンディングを迎える。その姿を見て「意外と真面目で根性あるじゃん」と思ったのである。面白いのはこの真面目で根性があるという説明はどこにも存在せず、それは視聴者が「読み取らねば見えない」情報だという事である。私はこう見えて単純な人間なので、この一連の流れを見て感動して、他の動画はどうなんだろう?と気になるようになった。
これまでのVTuberはスタートの時点でゴール地点にたどり着いていて、スタートで作り上げたキャラの枠からはみ出さないように作られていた。*1だからキャラクターが成長しない。
一方で、ジェムカンのメンバーにはそれぞれ夢がある。そしてその夢をまだ達成できていない段階にある。つまり、スタートとゴールの地点が別に設定されている。それはスタートで提示されたキャラとゴールに辿り着いた時のキャラが違っているという光景が想像できるのである。例えば「ひきこもりで友達がいない」という設定はおそらくあと少しで無意味になるんじゃないだろうか?と思っている。
コラボ配信が増えた事によって、それまでのソロ配信にも変化が生まれ始めている。ジェムカンは成長する配信者なのである。ジェムカンの魅力は「かわいい」ではなく、「かっこいい」のだという事に気づいてほしくて記事を作成中である。
*1:ネタ的な意味ではみ出しているキャラはいるが、それらは成長の変化ではない。
リンク切れ
インターネットのダメなところはリンク切れをすぐに起こす事だ。自分のブックマークは定期的にバックアップしておいたのだが、半分以上のサイトが見られなくなっていた。
インターネットアーカイブで見ればいいやと思っていたのだが、しばらくすると、こちらでも見られなくなっていた。どうやらインターネットアーカイブも申請されるとサイトを見られなくできるようになるらしい。いい事言っているくせに、本人が削除するケースもあるらしい。
人はコロコロ考えが変わるし、技術不足さが恥ずかしくなり、そういうのを見られたくない気持ちはわからなくもない。でも、そのせいで有用でない情報ばかりが残ってしまうっていうのは残念すぎる。
ブラック企業の評判とかそうだ。ついこの前まで見る事が出来た悪口がある時点からパッタリ見られなくなる。まぁ、会社にとってはブランドのイメージに関わる重要な事だっていうのは分かるけど、どんな会社員だって不満があるのは当然なんだからそんなのわざわざ気にしていたってしょうがない。四六時中監視してるヒマがあったら他の事をすればいいのにと思う。
自分の体験から言ってもグーグル先生は「はてな」や「twitter」みたいな勝手にリンク貼られる系のサイトはすぐに収集するくせに@niftyとかgeocitiesみたいな個人サイトは自ら申請しないかぎり載っけてくれなかった。結局はでっかいコミュニティに属していた方が発言権がでかくなるんだよね。
なんかネットも無難な事を言わないと生き残れないんだとしたら、テレビと何も変わらなくなってきた。本当に自分の立ち位置って何なんだろうと思う日々が続く。自分の発言も残るものなのか、あっさりと消えるものなのか全然わからない。それでも書く。
じぇむかんの攻略法2【入門編】
今ならギリ古参ぶれると、30分近い動画を11人分数十回見て、まだ半分も見れていないのに、すでに心が折れかけている。初見大歓迎の雰囲気があるので、アーカイブから追っかけるより、リアルタイム配信にどこでもいいから参加した方がいいかもしれない。
印象は前回と変わっていないので、いろいろ補足しておこう。
- リアルタイム配信がメインだが、平日のゴールデンタイムに配信するので、参加できる事は稀。その一方で完全週休二日制を採用、休日の配信は少ない。
- グループ内のキャラが偏っている(ひきこもり、ボケキャラ、名前一人称など)
- VTuberとしては明らかに失敗しているが、「新しい形のアイドルです」と言われると何も言えない。
- 歌がシンプルに上手いのに封印して、それ以外の部分で努力している事
- 変にプライドが高くなく親しみやすい
- かつてのモ○娘。やA○B48的な他のメンバー蹴落とそう感がない
アイドルの育て方として面白い。「自宅おk」「副業可」「メイク必要なし」など革新的な事ができるので、この方法が上手くいけばこれまで埋もれてきた才能を拾う事ができる。ひきこもりが多いのも、俺だ俺だ俺だ感がないのも、そういうこれまでの方法論だと落っこちてしまう人達を拾う事が目的なのだと思った。
気になるのは売り込み方があまり上手くない事である。「gem」という言葉には宝石という意味があるが、おそらくダイヤの原石みたいな感じで、「磨けば光る」子たちという感じなのだと思う。これは裏を返せば。わかる人にはわかるが、分からない人には「磨いていないただの石ころ」にしか見えないので、ようするに今の段階で評価する人間は少数で当たり前という話になる。
平日のゴールデンタイムに限定した事で、「熱心な人しか来ない」という環境が生まれている。これにより動画内の視聴者とのやり取りはマターリ(死語)しているが、これは少人数だからマターリしているのである。もし必要以上に認知度が上がれば当然アンチや問題児がやってくる可能性が高いが、いまのところそういう状況に対応できるメンタルとアドリブ力がない。
オレ「sage進行推奨。ageんなボケ」
全員「もっとageていきましょう」オレ「!?」
実力がない(才能が無いとは言っていない)時にヘタに数字だけ集めてもアンチが増えるだけなので、今は実力をつけるための「成長過程」の段階であり、「結果」である数字は原石である今じゃなく、「ダイヤ」に加工された時に増えるべきだと思うのである。
宣伝の方法もあまり上手くない、まず、配信の予定は当日にならないと分からず、公式のtwitterで知るしかない。なので、twitterを常時見ていないといけない。カレンダーのようなものは基本的に無い。推しメンバーのスケジュールが分からないため予定を空ける事が出来ない。twitterのアカウントとyoutubeのアカウントは必ずしも連動されているとは限らないので、twitterで興味を持ったからと言ってyoutubeのチャンネル登録数に結びつくわけではない。またtwitterユーザーのほとんどが専用アカウントを作っての交流が多いので、あまり外側に広がっていかない。
- 本人の意向をどれだけ汲んでいるのかわからないが、モデルの見た目から受ける印象と動画内容に剥離があり、ちゃんとした集客が出来ていない(特に後期メンバー)
身長の情報は3Dモデルに反映されており、創作ではなく本人に寄せている。キャラデザは撫子さんの話を聞く限り本人が「こうしてください!」と頼んだものだと思われる。中身(配信内容)は本人そのものだと思われる。マーケティングではなく、本人に寄せるという方向性。「オタク趣味はありますが、友達には秘密でした」という隠れオタが「オタクトークしたいです」みたいな感じなのだが、普段の「オタクと無縁な本人」に寄せた見た目は集客効果を下げる結果につながっている気がする。*1あとオールマイティなオタクはいないので、どの話題をどこまで掘り下げていいのか手探り感がある。
- 全身美麗モデルなのに、ラジオ的配信が多いためほぼ動きがない。構図も同じため映像的に飽きやすい。
- 音メインだとしても音量バランスが明らかにおかしい時がある
- 謎のタイミングで訪れる「ちょっと待っててね」
映像の技術が高いだけで、配信に耐えうるシステムは開発できていない可能性がある。公式チャンネルではダンスの練習動画が掲載されているが、現時点で画面に映れる最大人数が2人って時点でやや不安がある。
ちなみにリップシンク(口パク)が合ってないという指摘もあった。リアルタイム配信やダンス動画を頑張るのならば、早めに調整してほしいところである。
上級者向けすぎて紹介していいものか悩むが、こんな動画がある。ツッコミどころが多すぎてどこから突っ込めばいいかわからないが、まず、筋トレ動画という3Dモデルを活用できる動画にもかかわらずサウンドオンリー。しかもバイノーラル音声という努力の方向性がアレな動画。参加者190人近くが一緒に筋トレしてチャットコメントが減るというシュールな光景が見て取れる。
類は友を呼ぶというが、配信者と運営だけでなくファンもボケキャラだった可能性がある。このままドリフの「志村うしろうしろー」的な面白さを極めた方が異彩を放つ可能性が高いのではないだろうか。メンバーは12人目にはツッコミキャラを求めているようだが、長さんのポジションを新人に求めるのは酷なので、12人目もボケキャラでいい。
最近ではサウンドオンリーが多くなってきた。元々声優志望のオーディションから来た方々なので、それはありかもしれないが、3Dモデルは踏み台なのだろうか?それはそれで悲しくなってくるのだが、果たしてどういう方向へ進んでいくのだろうか。今後の動向に注目である。
つづく・・・・・・かも。
2020/4/5追記
「自宅おk」とか「メイク必要なし」と書いたが、これは違うっぽい。メタな話なので避けた方がよいのかもしれないが、3D系VTuberのほとんどがスタジオ撮影だと思われる。
3Dモデルで、なおかつグループで売り出している人が時間をずらして放送しているのは「気を遣って」いるんだろうなと思っていたが、そもそも機材が少なくて交代で使っていた可能性もある。私だけ放送時間短いみたいなトラブルを起こす配信者も見かけたが、「自宅おk」なら、好きな時間にやればいいわけで明らかに制約があったと思われる。*2
誰だったか忘れたが、VTuberの利点に「メイク必要なし」を挙げた人が声が震えているというか半ギレだった記憶があり、自分はそれを見て「実際はメイクしとるわ!ボケェ!」みたいな心の叫びを受け取ってしまった。人前に出るならメイク必要。
hotでcoolな温故知新
英文法は嫌いだが、英単語は好きである。例えば"hot"と"cool"という言葉があるが、これらはそれぞれ真逆の意味を持つ。hotな飲み物下さいとcoolな飲み物下さいでは違うものが出てくる。けれども面白いのはどちらも褒め言葉になるという点である。hotな情報、coolな情報、どっちも良い意味で使われる。言葉っていうのは最終的にこういうところに落ち着くべきよなと思う。
ヒット作は別に「新しくない」と評した事が一部の人の癇に障ったらしい。私は別にヒット作をdisるために新規性がないなどと言うつもりはない*1のだが、この言葉が人によっては悪口になってしまうのは謎としか言いようがないのである。例えば、最近のバラエティ番組で「昭和のバラエティノリ」みたいに昭和=古いという形式に使ってギャグにしているけど、それじゃ今現在の平成のコメディは昭和よりも面白く新しいのだろうか?体感的にはそんな感じはしない。
平成もあと少しで終わる。そうなった時、「平成ノリ」みたいにバカにされる日も近くなっている。けど、大事なのは平成とか昭和とかそういう事ではないと思うのだ。「昭和だせーよな」と言って平成のものにハマっていた人間は平成が昔になった時に「平成のものにハマっていた自分」を恥じるか、「新しく出てきたもの」を否定するかの両極の道しか歩めなくなる。トランプ大統領のやっている事がキリスト教の歴史から見れば何の新しさもないのに「今まで誰もやらなかった」とか「自分たちが世の中を動かしている」のだと信じている人達と同じ痛さがある。
新しく出来たものが必ずしも正しいとは限らない。何年、何十年と続いてきた伝統の中にこそ美意識が存在するケースだってある。「縄文時代に戻れ」というのは極端すぎると思うが、古さとか元ネタがあるという事が「悪口」になってしまうというのは理解できないし、非常に多くのものを失っている考え方だと思うのである。
ホットとクールのように、古さと新しさがどちらもカッコイイと認識されるような世の中になってほしい。
呪われた主人公【ゴジラ1954】
主人公の造形には大きく分けて二つの形がある。一つは観客が共感できる個人的な悩みを持つ「共感型」の主人公。もうひとつはその作品の世界が抱える問題をどうやって救ったらいいか悩む「英雄型」の主人公。初代ゴジラにはこの両方の主人公が登場する。通常、物語において主人公は成長し、最後は勝利するものだが、ゴジラにおいてはどちらも呪われるバッドエンドとなっている。
本題に入る前に山根恭平について話さないといけない。彼は最後においしいところを持っていくが、主人公ではない。これは当初の脚本、つまり、キャラクターのセリフと行動だけを追っていくとはっきりする。山根博士はマッドサイエンティストで気が狂っていて、例えば放射能汚染の危険がある場所で平気でトリロバイトを探そうとしている。また。ゴジラ抹殺に反対している理由は「貴重な研究資料」と述べており、ゴジラによって死んだ多くの日本人の事はあんまり考えていないというヤバいキャラなのである。しかし、普通に見ると彼に感情移入してしまう。それは原作改変されたというのもあるが、それ以上に山根博士を演じた志村喬(しむらたかし)の演技が上手すぎた事が原因である。
「志村さんの出演作や人となりについて知るようになったのは、かつて(高倉)健さんに『ぜひ志村喬記念館に行って、役者として勉強をしてほしい』と人づてに声をかけてもらったことがきっかけでした。はじめて訪れたのは'13年で、それ以降ここに来ては、お二人に『これからも頑張ります』という約束をしたり、気持ちを引き締めたり……。役者という仕事の原点に立ち戻って、スイッチを入れ直す場所になっています」(岡田・以下同)
志村喬と言っても若い人にはピンと来ないだろうからわかりやすく説明すると、「岡田准一が憧れる高倉健が尊敬する志村喬」と言えばいいだろうか。シンゴジラ世代の方々は邦画がクソな時代しか知らないと思うので、日本の俳優の演技はクソだと思っているだろうが、志村喬は本物の役者というにふさわしい存在である。顔芸やセリフの勢いでごまかしたりせず、「黙っている姿」とか「些細な間」だけで感情を読ませてしまう技術力は今見てもすごいの一言である。「世界の黒沢映画」の常連であった事からも世界に通用する役者だった事が分かる。
問題は、尾形と恵美子を演じた主演の二人が大根すぎて、ピカレスクだが一応「日本人の命と平和を守ろうとした」という事実がかすんでしまい、山根を演じた志村の演技力があったために、我々は狂気の科学者に感情移入する事になってしまった。このためゴジラの物語は誤読されやすくなってしまった。
これを踏まえてこの物語の「共感型」主人公は山根博士の娘「恵美子(と尾形)」である。そして、英雄型の主人公は「芹沢博士」である。*1
共感型主人公のテーマ(葛藤)として戦前と戦後というものが設定されている。戦前とは「ゴジラ」と「ゴジラに感情移入する山根」、「戦争で身心共にキズを負った芹沢」の事であり、戦後とはとりかごの鳥に象徴される「若い好青年尾形」、「芹沢を捨て尾形を選ぶ恵美子」の事であり、この二つの価値観の対立が一つの軸となっている。
ゴジラが観客として想定しているのは尾形や恵美子のような戦前を忘れて自分たちだけ幸せになりたいというような若者達なのである。彼らはゴジラと芹沢の死によって戦前と決別できるはずだった。しかし、最後に芹沢から恐ろしい遺言を残される。
芹沢「尾形、大成功だ。幸福に暮らせよ!さよなら、さよならー!」
これは祝福の形を借りた呪いである。スペック的に見て単なる好青年である尾形が芹沢には勝てない。芹沢はまだ誰も発明していない「オキシジェンデストロイヤー」を発見し、しかも為政者に渡すわけにはいかないという人格者であり、最後は命と引き換えに誰も倒せなかったゴジラを倒すという他の誰にもできない事をやってのけた。残された二人に残されるのはそんな素晴らしい人物を葬ってしまったという罪悪感だけである。「幸福に暮らせよ!」という念まで押されたが、ピカレスクである尾形には荷が重すぎる言葉である。こうして一つ目の主人公は呪われてしまった。
が、この呪いをかけた芹沢自身が今度は呪われてしまう。
山根「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへあらわれてくるかもしれない」
あのゴジラが最後の一匹ではないのだとしたら芹沢の死は人類への貢献でも何でもない。今度出た時はゴジラの対処法が無いからだ。彼女を寝取られ、科学者としての責任に耐えられなくなった男による自殺にすぎない。山根の一言によって英雄は単なる悲しい男になってしまった。もう一つの主人公も呪われてしまったのである。
ちなみに上記二つの呪いは現実の問題と地続きであり、我々観客にもかけられているわけである。ゴジラという映画が投げかけているテーマは、このような人間のエゴイスティックな醜さや恐ろしさであって、「ゴジラ怖い」がやりたいわけじゃない。むしろこの人間の恐ろしさに比べたらゴジラは単なる被害者でかわいいもんだという事である。造形などで必要以上に不気味さを強調する必要もないのである。
初代ゴジラのストーリーはこの通りなので、入門としてはオススメできない。映画は娯楽であるべきで、メッセージ性が高ければいいわけじゃない。というより、そのメッセージ性すらねじまげられて、政治利用や宗教的になっているのだから、正直な話ファンからすると困った事になっている。なので、個人的な初代ゴジラの評価は低くなりつつある。