ゲームライター

sudzuking.hatenadiary.com

 なんかTGSやってた裏側で、ゲンロン8の一件が進んでいたらしい。

 

genron-tomonokai.com

 ちなみに、修正された箇所は以下の9つだ。

  1. 家庭用ゲームなるもの→家庭でできるコンピュータ・ゲーム
  2. 独自の家庭用ゲームが→ゲーム機的に使われた小型コンピュータが独自に
  3. ぜんぜん→ほとんど
  4. ここ(ディスクステーション)→「ディスクステーション」からではありませんが、コンパイル
  5. しているので、ここでSteamの登録ユーザーは一気に伸びたはずです。→し、ここでSteamの新規登録ユーザーは前年の2.5倍になっています。
  6. PS2以降、JRPGは数百人の開発チームがあたりまえになって→2000年以降、「ドラゴンクエスト」シリーズでもスタッフロールの人数が百人をこえて
  7. UNDERTAIL→UNDERTALE
  8. 図3→図2
  9. 訳・解題→訳

 いいんじゃないかな(興味なし)。なお、ゲンロン8側は「電ファミニコゲーマー」編集部から225箇所の指摘を受け、その内容を公開している。個人的には(色んな意味で)すごいなと思ったが、一部では不服の声が上がっているらしい。

 

雷魚

jiraygyo.com

『電ファミニコゲーマー』編集部がわざわざ時間かけて225箇所の指摘を送ったにも関わらず、大半を「はいはいワロスワロス」で受け流しているとしか思えない回答に腹が立った。

 

野安ゆきお

note.mu

「ゲンロン8 ゲームの時代」という書籍内の、ゲームの歴史について数十ページにわたって語られている記事には、あまりにも事実誤認が多く、各方面からの激しい指摘が飛び、大きな話題を呼んでしまったことをご記憶の方も多いでしょう。

 でもって、電ファミニコユーザーさんが一肌脱いで、60ページほどの記事内にある、200箇所を越える問題点の指摘を著者の方々に提示したのですが、それに対する書籍サイドからの返答がこちらになるわけです。

(中略)

 うん。ここまで真摯じゃない返答は、めったに見られるものじゃありません。昭和の時代の役所のようだ。

  どちらもゲームライターで、商業でゲームの記事を書いた事があるらしい。彼らは職業柄、文章にもゲームの知識にも強いはずだ。彼らの目からするとゲンロン8の返答には問題があるらしい。

 

 私のような第三者の目には(簡略化されているとはいえ)それぞれの回答に個別の返答を行っているので、雑ではあるが、やる事はやっているように見える。また指摘内容自体が「?」となるものが多い。これについては電ファミニコゲーマーの関係者の方が次のような証言をしている。

 

 

  平信一という編集長の人らしい。この225の指摘は「こうした方が見やすくなる」という「編集校正」であって、「事実誤認」とイコールではない。それに対して「今後の編集の参考とさせていただきます。」は、態度はどうであれ間違ってはいない。

 

 むしろ、「大した知識も無いくせにゲーム語るな」という言葉がブーメランになって「電ファミニコゲーマー」が窮地に立たされている。

 

ドラクエ以前の国内パソコンゲーム(要約)

 

note.mu

  ゲンロン8に対する批判よりも、電ファミニコゲーマーに対する批判の方が的を射ているように感じる。ちなみに野安氏はこんな事を言っている。

 

note.mu

 「ゲンロン8 ゲームの時代」において、おまりにも大雑把な、しかも事実誤認が多いと指摘されまくったゲームの歴史が語られたことが、ゲームファンの間で話題になりました。

 この書籍、いろいろな大きな問題があったのですが、すべてが悪いことだったかというとそんなことはなくて、いくつかのポジティブな面もありました。その中のひとつが、各方面にいた「寝た子を起こした」ことにあるんだと思います。

 テレビゲームの歴史を、すべて網羅できるような知識を持つ人は、この世には存在しません。あまりにも膨大なソフトが発売され、全世界で2億人ものプレイヤーがそれぞれ自分の好きなようにゲームに親しんでいるという現状があるため、「ゲームは、このように楽しまれている文化だ」などと軽々と語れるようなシロモノてはなくなっているからです。

 そのかわり、「この限られた分野なら、圧倒的に詳しいぜ」という知識を持つ者が、たくさんいます。「ポケモンの歴史ならまかせとけ」とか、「格闘ゲーム黎明期のムーブメントは知悉している」とか、「家庭用ゲーム機搭乗前のPCゲームの機微なら、すべてわかるぞ」とか、そういう人たちです。

 スポーツ全般の歴史を網羅している人はいなくとも、「高校野球の現状についてならまかしとけ」とか、「ドイツサッカーの流れなら理解しているよ」とか、そういった人たちと同じですね。

 これらの人たちは、ふだんはその知識を表に出すことなく静かにしているのですが、「ゲンロン8 ゲームの時代」が、あまりに大雑把なゲームの歴史を語ったことを知り、自分の知識とのあまりに食い違いに怒り、あるいは呆れたことにより、一斉に飛び出してきました。「あ。野生のゲーム知識人が現れた!」みたいな感じですね。

 「ゲンロン8 ゲームの時代」は、そこに書かれていることが酷かったがために、せっかくの知識を持ちながらも眠っていた人たちを、「そんなテキトーなゲーム史を定着させてなるものか!」と目覚めさせる効果を生んだのです。

 私が見る限りでは、「寝た子を起こした」のは電ファミニコゲーマーのように思う。もっと言えば「軽々と語れるようなシロモノではなくなっているからです」と言いつつ自分たちは好き放題言っているという動きに反抗して増えたように感じるのだが。お仲間を守りたい気持ちはわかるが、事実誤認を問題にしている人が事実をねじ曲げ印象操作しようとしているのは頂けない。

 

 ちなみに地雷魚氏はこんな事を言っている。

物凄い腹が立つなんだけど、この人たちに限らず、日本で「ゲームを語る人たち」がコンシューマーゲームばかりしか頭にないのだ。

この「コンシューマーゲーム偏重」、はっきり言って日本のゲーム文化の貧困でしかないし、勉強不足でしかない。

RPGに限らず、アドベンチヤーゲームもシミュレーションゲームも、その他、あらゆるゲームジャンルが、いきなりコンシューマーゲームで生まれたと思っているのか?

実に悲しい事だが、そう思い込んでいる人が多いのも事実だ。

1980年代の国内パソコンゲーム市場によるRPG、シミュレーション、アドベンチャーゲームの受容がなかったら、ほとんどのコンシューマーゲームのジャンルは育っていない。

せいぜいゲームセンターからアクションゲームやパズルゲームが移植されるぐらいだったろう。

そもそも、海外ゲームがいきなりコンシューマーゲームで受け入れられるとでも思うのだろうか?

RPGを例に挙げると『ウルティマ』と『ウィザードリィ』を元に『ドラクエ』を作ったと言われているが、そんなわきゃないのである。

日本のパソコンゲームRPGがブームになり『ザナドゥ』、『ハイドライド』、『夢幻の心臓』、『イース』、『ソーサリアン』などがなかったら、まずRPGを理解するクリエイターが育ってない。

 まず、日本のゲーム評論が「コンシューマーゲーム偏重」という事実は無い。もともとゲームの歴史は偏重されている。例えば98年頃から「遊戯王デュエルモンスターズ」というコンシューマゲームが出てくるのだが、ポケモンの影に隠れて表舞台で語られる事がない。当時のカードゲームブームの中で一番成功して、ゲームボーイカラーとポケステの通信を可能にし、現在のソシャゲの○○レアみたいなムダにレア度を細かく設定する*1とか、アメリカを中心に世界でもそこそこウケているとか個人的に「なんで無かった事にされてるの?」みたいな作品である。

 

  また、ドラクエの話題の後に「夢幻の心臓」が出てくるのはいいとして、「イース」が出てくるのは謎。イースはたしか1987年に出て、86年のドラクエよりもゼルダよりも後発だったと記憶しているが。だからイースのようなRPGに育てられてドラクエが出てきたっていうのは「事実誤認」になるのではないか?普通の記事だったら、「だいたいそんな感じ」で済むけれども事実誤認を指摘する記事でこういう事をやるとハッキリ言って信用できなくなる。

 

 ちなみにこの人「JRPGの基本文法がパソコンゲームにある」って言いたげだけど、JRPGって「セカイ系」と同じ蔑称だと私は認識しているので、それらのゲームをJRPGと表現していいのか疑問。この名称使い出したのって外国人で、ペルソナとかFFみたいな日本独特の本来のRPGとは違うものをJRPGって言うんじゃないの?「anime」みたいな。「私はもうゲームライターを卒業して20年」みたいな事言ってるので知らなかったのかもしれないけど、そこは怒るところじゃないのでは?

 

  これ、メーカーが直接「事実誤認」を確認していたらこんなに大事にはなっていなかったと思う。どちらかというとメーカーはゲンロン8を「許容」していたわけで穏便派だったのだと思う。それに対して勝手に「あいつはキミにとって邪魔だったから殺してあげたよ」とかやられてもヤバいストーカーでしかない。正直全然かっこよくない。

 

 そんな事よりも「ワシらの庭でナニ店開いとんじゃあ!」みたいなヤクザ気質みたいなのが見え隠れして嫌な感じである。ゲームライターがそんな感じで自分たちに都合のいい文章ばかり残してきたのかと思うと呆れる。

 

 テレビ朝日が中国の情報が欲しいばかりにズブズブの関係になっているように、ゲームライターの言っている事もまるごと信用するのは危険だ。「野生のゲーム知識人」には頑張ってもらいたい。私ももう一度ゲームの歴史について語っていこうかなという気になってきた。

 

関連

togetter.com

*1:それ以前はコモン、アンコモン、レア程度

今更すぎるがゴジラの逆襲を語りたい

 勢いで初代ゴジラを語ってしまったわけだが、この流れで「ゴジラの逆襲」についても語っておきたい。個人的にはこの作品は幼少期から見ていたゴジラ映画なのだが、評価としては50点。好き嫌いでいうと「どっちでもない」という思い入れゼロの作品である。なので、正直な所ちゃんと語れる自身はあまりない。

 

 なんでこんなに低い評価なのかというと、まず「表現」がよくない。前作では動物が○○のメタファーみたいな感じで上品な映像だった。ところが今作は直球の映像表現しかないので単調で深みがない。また音楽面でも、テーマ曲はともかくとして、怪獣出現がシンバルのSEだけで、お馴染みのテーマにある「くるぞくるぞ」的な効果的な使い方がされていない。このため全体的に安っぽいのである。

 

 また、シナリオもいまいちである。

 

(メインタイトル)
サウンドエフェクト(シンバル)とゴジラの鳴き声
・空を背景にテーマ曲
アンギラスの鳴き声

 

(二人のパイロット)
・空飛ぶプロペラ機(カツオの大群を発見)
・モールス信号と女子通信士
パイロット「月岡」と通信士「秀美(社長令嬢)」のカップ
・小林機のエンジン停止
・岩戸島へ救援に向かう月岡
・冒頭からゴジラ登場
・もう一体巨大生物がいて戦っている
・取っ組み合いをして海に落ちる二体

 

ゴジラの同類)
・会議室
・古生物学者の山根恭平博士登場
・アンキロサウルス=アンギラス(恐竜というよりクッパ大王)
・およそ7千万年前~1億5千年前(地質時代)の巨竜の一種(ゴジラも同時代の生き物)
・肉食というねつ造
ゴジラに対して無為無策
・前作の映像を確認(長い)
オキシジェンデストロイヤーという切り札はもう無い
ゴジラはあの一匹だけではなかった
ゴジラアンギラス原水爆以上の脅威
・付近の住民の避難について
・光に敏感=水爆実験のフラッシュバック
・照明弾で海上へおびき出す消極的な対策

 

ゴジラ対策)

・大阪

・月岡と秀美の会話
・空を飛ぶ飛行機
ゴジラらしきものレーダーに確認
・飛行機とフリゲート艦配備
・大阪近辺の地図上にゴジラと飛行機の模型
・四国沿岸にゴジラが来る
・社長の工場近くに出るかもしれない

 

ゴジラ上陸回避)
・昭和の街
・ダンスパーティ
・大阪に警報
・街の照明が落とされる
・海に照明弾が落とされる
ゴジラ出現。首が細長く出っ歯。腕が長い。
・避難する人々
・照明弾へ向かうゴジラ
・一安心する人々
・社長が工場へ向かった。月岡と小林も向かい、秀美は残る。

 

ゴジラアンギラス
・護送車から脱走する囚人たち
・逃走の途中で火災発生、ゴジラがそれに気づく
ゴジラに対する集中砲火
・戦闘機が落とされる
アンギラスも上陸
・社長「照明弾があんなやつまでおびきよせたのか」
ゴジラアンギラスがケンカを始める
・互いに首元をねらってかむ
・スピード感のある格闘シーン
・脇の下からスッキリしていて格闘に特化したゴジラ
・ドタンバタンとワシャワシャ感の戦闘(ハイスピードバトル)
大阪城でのバトル
・首元をかまれて情けない声のアンギラス
・息絶えた所を焼き殺される
・海へ去るゴジラ

 

(花婿が残したもの)
・破壊された大阪の街
・社長「必ず立ち直ってみせるよ。北海道から飛んできた甲斐があった」
・小林は北海道支社へ
・小林「花嫁さんを探しに行ってくる」
・女性「気をつけてね花婿さん」
・人々「わはははは」
・小林の飛行機から漁船へ手紙が投げ込まれる「大漁を祈る 小林」
・月岡と秀美も北海道支社へ
・宴会
・学生時代の友と月岡が再会
ゴジラによって船が被害にあったという情報
・飛行機による海上捜査
・秀美「月岡機直ちに帰還せよ」
・継続する月岡
・秀美「イジワル!」
・秀美と小林
・小林「女の子ってどんなものほしがるんです?」
・秀美「ハンドバッグ」「時計」「くつしたでもいいわ」
・秀美に相手を訊かれてごまかす小林
・小林「遅いな月岡のやつ
・神子島上空でゴジラ発見
・燃料が少ない月岡の元に小林が向かう
・小林が置き忘れた手帳には若かりし秀美の写真
ゴジラを発見する月岡と小林
爆撃機が出動
・空を見る秀美
・人型っぽいゴジラ
・小林はゴジラの後を追いかけ気を引く
空爆攻撃、しかしゴジラには効かない
・火をはいたゴジラにより小林機墜落
・しかし、その衝撃により雪崩が起こる
・ひらめいた月岡は爆撃で人為的に雪崩を起こす
・小林の死を父に伝える秀美。「だけど、たった一つの方法を残してってくれた」
・手帳に残された写真を見る秀美

 

(氷づけのゴジラ
・一時退却で作戦を練る
・氷に埋まって顔と手だけ出すゴジラ
・氷から出てくる
・火薬(ガソリン?)による足止め
・爆撃により再び雪崩を起こす
・息により飛行機を打ち落とすゴジラ
・パンチも当たるようになったゴジラ
・しかし、その間も続く爆撃で起きた雪崩により埋まるゴジラ
・月岡「小林、とうとうゴジラをやっつけたぞ!」
・雪山の島(神子島)と終のクレジット

 

 ・・・・・・大まかな流れは上の通りだが、完全に1作目の焼き直し感が強い。しかも、大阪がメインの舞台だが、決着は北海道と、地理的に見てもなんでゴジラはそんな移動をしたんだ?という感じでリアリティがない。完全に「見せたい映像」があって、それをつなぐために作られたようなシナリオなのである。

 

 聞くところによると、撮影期間3ヶ月らしいので、まぁ、そんなもんだろうなという感じである。もうちょっと丁寧に作ればクオリティは上がっただろうにもったいない作品である。

 

 評価できるのは日本人の好きな映画タイトル「○○の逆襲」の先駆け――みたいな、エポックメイキングなオタク向けの内容になってしまうので、正直ゴジラ初心者にはあんまりオススメしない作品である。

 

 それでも今回あえてとりあげるのは、シンゴジラって本当は「ゴジラの逆襲」を基に作った方がよかったんじゃないだろうか?庵野秀明のルーツってこっちじゃね?みたいな事を思うからである。というわけで前作ほど深い掘り下げは無理だが、語れるところまで語っておこうと思う。

初代ゴジラとシン・ゴジラの違い

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 長々と初代ゴジラについて語ってきたが、そもそもの発端はシンゴジラのファンによる、シンゴジラは「初代ゴジラの再現」であり、パチモンの「ハリウッドゴジラとは別物」という「正統な後継者」であるという論調に対抗して書こうと思ったのがきっかけである。これまでまとめた事からシンゴジラは本当に初代ゴジラと同じ存在なのか考えてみたい。

 

sudzuking.hatenadiary.com

 

 まずゴジラは神なのか?私の答えは「ノー」だ。ゴジラが神だという根拠に「ゴジラ英霊説」がある。だが、この「英霊」というもの自体が特殊なのである。

日露戦争以降、特に国に殉じた人々、靖国神社護国神社に祀られている戦没将兵の「忠魂」・「忠霊」と称されていたものを指して使われ始めた [2]。政治的、思想的な論争の対象となることがある(詳細は靖国神社問題を参照)。

Wikipedia英霊」より引用)

 

  まず、御霊信仰というものがあるので「死者が神になる」という事は不思議な事じゃない。だが、そもそも祟り神になる存在は元々の地位が高い、「高貴な者」である必要がある。例えば、首塚で有名な「平将門」は桓武天皇の子孫であり、元々「神の子」なのである。その辺の犬猫や下級武士、町人や農民をいくら斬り殺そうがそれらは怨霊になったり祀られたりする事はない。唯一の例外は「靖国神社」である。靖国神社は高貴な生まれでなくても「国に貢献して死んだ霊」が祀られた。坂本龍馬なんかも祀られているらしい。

 

 さて、では上記の前提知識を持ってゴジラは神と呼べるのだろうか?まず初代ゴジラはメインストーリー的に戦前を担っているので、そういう読み取り方もできる。だが、シンゴジラはそうではない。シンゴジラのテーマには戦前、戦後というテーマがなく、東日本大震災を下敷きにされているため「英霊」という表現がない。一部で言われているのが「牧悟郎=ゴジラ説」だ。

 

放射線病で最愛の妻を失っており、妻を殺した放射能放射能を生み出した人類、そして妻を見殺しにした日本という国家を憎んでいたとされ、やがて学会から半ば追放される形で日本を離れ単身渡米した。

pixiv百科事典より引用)

 

 さきほど述べたように、英霊とは「国のために死んだ人達」の事であって、「国に恨みを持っている人」ではない。平将門のような例もあるが、こちらも先ほど述べたように「元々の地位が高貴」なのである。つまり「単なる科学者」が「国に恨みを持って」東京を襲っても、それは神として祀られる事はない。前例と違うからだ。

 

 原作者が関わった「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」の「香山ゴジラ」では、ゴジラは神ではなく「生物」として描かれている。暗い深海で生きていたゴジラは眠りを妨げた「原水爆ピカドン)」のように「ピカピカ光るもの」に敵意を持っている。だからゴジラは人工の光が多くなる夜中に行動を開始した。その怒りの原因を知ろうともせず、自分たちだけ幸せになりたいという民衆は街をピカピカにし、その結果火の海と化す。カメラのフラッシュを焚きまくった事でテレビ塔も破壊される。なお、シリーズを見るとゴジラは人口の多い都市から襲っている。人口が多く発展している「都市」が一番ピカピカしているからだ。

 

 一方のシンゴジラは真っ昼間に堂々と現れる。もちろん東日本大震災の被害は午後3時前後に広がっていったのだから、それをモデルにするならば昼に現れる必要があるのだが、いずれにしろ初代ゴジラとは別の生き物である事が分かる。登場した理由が明確でどうすれば怒りを回避できるか分かる初代ゴジラと違って、シンゴジラは何故東京に現れたのか不明なので、本当に対策のしようが無い。怒りの原因が分からないので、「しずまりたまえ」という古来の神への対応もできない。

 

 なお日本人にはジブリアニメの「乙事主」「饒速水小白主」などのように自然の擬人化としての神の描き方もある。原作改変の張本人である本多猪四郎の持つ怪獣観も似たようなもので、この傾向は「プロレスゴジラ」の時代により強くなっていく。シンゴジラも前半部分は「天災的」に描かれるので、この意味で神だが、後半は自然ではなく、庵野の世界観である「人間スゴイ」が前面に出ているので、そういう古来の神でもなくなった。

 

ゴジラ」の描写だけが気になるわけじゃない。俳優の演技についても思うところがある。初代ゴジラでは志村喬のように本物の演技ができる人間がいた。もし、手元にビデオがあるならば確認してほしいが、彼の最後の言葉、

 

「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへあらわれてくるかもしれない」

 

は、早口でかっこつけて言われるわけじゃない。間を作りながら、感情を込めながら、それが台本ではなく、本当にその場で生まれた言葉のように語られる。岡田斗司夫は日本の役者は演技ができないから「早いカット割で演技の幅を狭くした」みたいな事を言っていたが、これが本当だとしたら失礼な話である。そんな作品が日本アカデミー賞に選ばれた事に映画界は何かを感じなければいけないだろう。

 

 また「世界のどこかへあらわれてくるかもしれない」とあるように、ワールドワイドな話であって、シン・ゴジラのような「日本人にだけわかればいい」というような狭い作品ではない。

 

 そもそも俳優が演じるキャラクターも感情移入できない存在だ。ゴジラの主人公尾形はあんまりエリートに見えないが、シンゴジラの主人公はエリートである。岡田斗司夫曰く、大物政治家にとって子供ができなくなる事は一族の存亡に関わる話で、そんな中「二世である主人公が放射能の中へ立ち向かう話だ」みたいな事らしい。いや、放射能の恐怖に怯えるのは民衆も同じだろ、なぜそれを描かない?という事が気になる。初代ゴジラは「少年」「戦前を忘れたい若者」「一人苦悩する科学者」「ゴジラに理解を持つ生物学者」「決死のアナウンサー」「全てを諦めた親子」などあらゆる人間を描いている

 

 シンゴジラの登場人物はまるでAIのようなこんな状況になったらこういう機械的な動きをして、こういう学習で知能を上げていくみたいなしょうもないシミュレーション(妄想含む)をやってくれる。エリート主人公をかっこよく描いておいて、「老人学者は否定的」「避難が遅れて自衛隊の攻撃をストップさせるバカ」「民衆はゴジラを神といってデモを起こす」など観客側のキャラクターはとことんコケにする。日本人俳優は演技が下手で、民衆はバカしかいないという思想の映画を見て「日本万歳!」みたいに捉える人がいる事が不思議でならない。

 

  ちなみに「オキシジェンデスロイヤー」での決着は初代では悪い結末として終わっている。それは「相手の言い分を聞かず」「兵器の力で見せかけの平和」を作る事に対する怒りが根底にある。ところがシンゴジラでは「無人在来線爆弾」とか「血液凍結剤」のような恐ろしい兵器を肯定しまくっている。ゴジラの扱いも「水爆の被害者」ではなく、「人類が倒さなければならないモンスター」になっている。なのでテーマが別物である。

 

  また演出面で見ていきたいが、着ぐるみのようなアドリブに強い映像ではなく、CGに多い「俺が考えたかっこいいシーン」臭が強くてあまり感動しない。

 

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  音楽面にも不満はある。

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 伊福部昭は映像ありきで音楽を作っていた。シンゴジラのエンディングで使われたBGMも画面を映しながら演奏している。彼の音楽は音の強さから楽器の編成、曲の流れからテンポに至るまで計算して作っている。それなのにシンゴジラは安易に過去作で使ったスッカスカな音の録音音楽で済ませてしまった。よりにもよって伊福部昭と真逆の方向性で氏の音楽を使ったのだ。ファンから言わせるとこれほど酷い仕打ちはない。伊福部先生が存命だったら苦言を呈していただろう。

 

  と、まぁ、共通点を探す方が難しい。この記事を見た人はもう「シンゴジラは真のゴジラ」みたいな事を言わないでほしい。全く別の作品「新ゴジラ」として扱ってほしいものである。

GEMS COMPANY個人的メモ3

 めちゃくちゃ持ち上げといてこんな事を言うのもなんだが、なんか雲行きが怪しくなってきたので、GEMS COMPANYと距離を取ろうかなと思っている。

 

 自分の中で失念していた事があって、ジェムカンは(一応)アイドルでありファンの力が大きいグループだ。アーカイブ追っかけながらライブ配信を見ていたんだけど、ジェムカンの動画はチャットのコメントを見ながら配信というスタイルを主流にしている。そして他の配信者と比べてもジェムカンメンバーはこのコメントを拾い上げる率が高い。特に初見に対しては必ずリアクションがあるので、常連が初見の振りをするくらいだ。

 

 で、ニコニコ動画なんかと違ってyoutubeのコメントには名前が表示されているから、「あの動画にいた伝説の人だ」みたいな感じで古参が人目見て分かってしまう。スパチャでお金をあれだけ出した人とか、twitterでこんな絡みをした人みたいな「貢献度」みたいな物が蓄積されていってる。

 

 で、そういう伝説の人が「半公式化」しているんだけど、彼らはVTuberでも、ディアステージに所属しているアイドルでもない一般人なわけで、当然こういうサイトで話題には取り上げにくい。が、配信者は友達感覚になっていて平気で名前を挙げてたりする。なので、扱いが非常に難しい。そしてその関係性は長い事一緒にいるからわかるわけで、そういう仲良し同士の会話は一見さんには全くついていけない世界である。配信者とファンの距離は近く、壁はない。だが、ファンと一般人の間には、壁どころか断崖絶壁が存在しており、片足を突っ込むのにも躊躇してしまう。

 

 ・・・・・・その断崖の溝が最近ではさらに深くなっているように感じるのである。「ジェムカンファンに悪い人はいない」みたいな認識がメンバーやファンの中で共有され始めていて、これは(いまのところ)間違ってはいないのだけど、それは本来「一見さん」が言うべきセリフであって、身内が口にする事ではないと思うのだ。外国人が日本に訪れて「日本人は素晴らしい」と言うのはアリだけど、「ウリたちは世界一の民族だ!」と自分から言うのは妙な選民思想のようで何か違う。受け取り方によっては「ジェムカンを推していない人は悪い人」とも取れる。それに私は自分の事を「いい人」だと思っていないので、残念ながらその輪の中には入れない。だから軋轢を生む前に距離を取ろうと思うのである。

 

 ファンは「現段階」のジェムカンを「いい」と思っている人達だが、地球上にいるほとんどの人は「あまりいいとは思っていない」のであり、ファンに向けて動画を作る事が人気を増やす事にはつながらない。それは内輪ネタに過ぎず、世界を目指すべき者の姿勢ではない。私は「初見向け」の記事を書くつもりだったが、ファン向けの傾向が強くなってきているので、記事を書いてもオススメできる動画が少ないという状態になっており、書く気力が半減している。

 

 これでスクエニあたりから報酬があれば仕事になるのだが、実際はボランティアであり、割に合わない。熱心なファンは更新頻度の高いtwitterとかをチェックしており、過去のアーカイブを見てまとめサイト作ろうとは思っていないっぽい。自分がやっている事は無駄な努力に近い。

 

 今後どうするかはジェムカンTVを見てから決めるけど、後方支援に徹するようにしたい。

動物たちが意味するもの【ゴジラ1954】

 初代ゴジラは非常に上品な作品である。特に映像はメタファーを巧みに使う事によって深く、それでいて押しつけがましくない作品になっている。注目してほしいのは「動物」の表現である。

 

 初代ゴジラに出てくる動物は人、ゴジラ、鳥、魚である。観客が喜ぶからと言って犬や猫を無闇に出したりしない。「ゴジラ」と「人」は仕方ないとしても、なぜ「鳥」や「魚」が出てくるのだろうか?

 

 まず、「鳥」は「ゴジラ」と対比されている。ゴジラは「水爆を食らった恐竜」なのだが、鳥は恐竜の子孫と言われており、ようするにゴジラが祖先で、鳥が子孫という構図ができあがっている。そしてゴジラと鳥が同時に映るカットでは、鳥は「鳥かごの中」、ゴジラはその背後で「巨大な姿」で映される。これは直訳すると、「我々がバカにしている存在は大昔はこんなに恐ろしい生き物だったんだ」という事になる。

 

 が、別にこの映画はヒッチコックのように「鳥怖い」が描きたくてそういう対比を使っているのではない。初代ゴジラのメインストーリーを見れば、「戦後」と「戦前」という対立軸がある事にきづく。つまり、太古の昔から大日本帝国まで続いてきた「ご先祖様」が「ゴジラ」であり、戦後に生きる現代日本人は「鳥」なのである。かつての大暴れしていた存在と、「アメリカという鳥かご」の中で身動きのできなくなった子孫という対比がここに重ねられているのである。

 

 鳥かごの鳥が登場するシーンは、「尾形と恵美子のシーン」――父親である山根と上手くコミュニケーションが取れない2人、もうひとつは「あの世へ行ったお父ちゃまの元へ向かうのよ」と全てを諦めた親子のシーン――深読みすると「お父ちゃま」にはゴジラも含まれているのだろう。鳥は地獄から蘇ったご先祖様に怯える民衆達の暗喩なのである。

 

 このような構図がある以上、年老いた山根博士が「ゴジラ側」に傾くのも自然になる。彼は自室にステゴサウルスの模型を置いているが、「戦後」になじめない彼は、誰よりも「ゴジラを理解する事が何より最優先だ」と考えているのである。彼からすると「相手の言い分を聞かず」抹殺するというのは腹立たしい事なのである。

 

 さて、ではもうひとつの動物である「魚」は何を意味しているのだろうか?「魚」が映っているシーンにはある登場人物がいつもいる。「芹沢博士」だ。芹沢の研究室には巨大な水槽があり、そこで芹沢は「オキシジェンデストロイヤー」の実験を行っていた。何の罪もない、「その辺にいる魚」で、だ。

 

 そして、最後のゴジラを葬るシーン。その直前に「海を泳ぐ魚のシーン」が挿入される。民衆の誰も、下手すると我々観客すらも意識する事の無い「取るに足らない存在」。けれど、それは確実にそこに存在した「犠牲者」である。オキシジェンデストロイヤーは液体中の酸素を一瞬で破壊しその中の生物を窒息させる働きがある。つまり、エンディングで死んだのはゴジラと芹沢だけではない。東京湾にいた魚も貝もエビも、ひょっとすると紛れ込んだタマちゃんみたいな存在も死んでいたかもしれない。

 

 その光景を芹沢だけが知っていた。何度も実験をして、その恐ろしさを目の当たりにしていた彼は、当然これを使えば東京湾がどのような事になるか想像できていたのである。だから彼はこんな恐ろしい兵器が二度と使われないように完全に封印した。その事を民衆は知らない。兵器の恐ろしさを芹沢が隠していたからだ。「この感激!この喜び!ついに勝ちました!」と言ってしまえる彼らには、ゴジラの死だけが映っており芹沢と魚たちの死は見えていない。

 

 鳥、ゴジラ、魚――全部「日本人」の暗喩となっている。だが、最後の山根博士の一言によって、「核実験が続けばあなたの国も他人事ではありませんよ」とワールドワイドなオチがついているのである。本当にすごい作品だ。

 

 ちなみに、こういった映像演出は2作目「ゴジラの逆襲」ではなくなってしまっている。おそらく原作改変した本多猪四郎の演出ではないかと思っている。